ものすごく矛盾に満ちた表現に感じられると思いますが、ここ1年ぐらいの間、ず〜っと気になって考えてる言葉です。
それはともかく、先日のSoul Feelingに遊びに来てくださった皆さん、本当にありがとうございました。敢えて感想を書くことはしませんが、一言だけ、楽しかったス!
さて、こっからは本当に私的な記録としての文章です。あしからず。
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「我思う、故に我あり」
高校に入った頃、現代社会の資料集を読んでてすごく考えさせられた言葉であるとともに、「だから、その思う(考える)主体、存在するという対象としている『我』ってのは何なんだよ?」と疑問に思い続けた言葉。むしろその後、大学入試の過去問の中に出てきて読んだ、利根川進博士の、「人間の思考も感情も全て物質的な反応として説明できると考えている」(確かこんな感じだったと思う)という言葉の方が納得できた。
経験し、記憶し、知識を蓄え、それらの反応によって思考が常に生じる。その機械的な動きによって、他の色々なものと分離した「自分」という概念がいつの間にか作り上げられている。実はそれだけじゃないのかとも思う。なんで「自分」という主体が先に存在すると考えてしまうのか、よく分からない。思考という運動が全く無ければ、仮にそんな状態があるなら、その時「自分」という意識は存在しないんじゃないか?と思う。
今、「自分」が何かであり、そして目指すべき何かになろうとして努力するという運動、、、仮にいつか「自分」が何かになったと感じたとして、その時果たして満足することはあるのか?終わりのない追求が続き、そして身体機能の停止によって、「自分」という継続の終わりが来るまで繰り返されていく。何か、いわゆる人生というのはそんなものとして説明される気がしてならない今日この頃。
何の継続も存在せず、一瞬ごとにあらゆる経験、記憶、執着といったものの死と共に生きること、そんなことができるのかどうか、、、事実としての過去はもちろんあるとしても、そんな風に一瞬ごとの死と共に生きることがもしもできるなら、それはものすごく活き活きした生ってやつなのかなと。
未だよく分からず、、、
2007年09月10日
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ただ私的には「今日死んでも後悔しないような生き方をしてるぜ!」って言うヤツラは嫌いです。一日で成せない事は物凄くあるだろ!とか思う。
っつーかそういう生き方は薄っぺらいよ。
あと私見なんですが「我」というのは生きていく上で「人間」が得た、ソフトウェアだと思うんです。感情とか思考に嗜好、そういった多種多様なパターンをデータとして保存する為の。
当然それらは後世の人間の為になるし、もし「神」なるものがいたら人間の次に「知的生命体」を作る為のデータにもなるでしょうしね(笑)
今鳥海山さ登ってら。
雄大な景色みるど悩みも吹っ飛ぶで。水平線丸いし地球のサイズがなんとなく認識できる。自己っていうのも人間を超越した存在にしか分かんないじゃないかな。山登んないと地球見えないように。でも自己がどうであれ自分の存在なんてちっぽけだと思うよ。まあ今は自分と関わって生きている家族や友達を大事にして生きたいと、日本海を眼下にして思いますた。
「死ぬんだからしっかり生きろ!」か、、、そうなのかな?何かそれはちょっと観念的な気がするよ、俺は。「今日死んでも後悔しない生き方」という表現は、「人生を評価する」という行為が前提になると思うんだけど、俺はそもそも何らかの信念とか価値観に基づいて評価するって事にかなり疑問を抱いてるな。確かに物理的に「一日で成せない事」はたくさんあると思うけど、何かを成すために生きるって事には常に悲しさが付きまとう気がする今日この頃。
「我」がソフトウェアか、確かにそう言えるかもしんないすな。それによって蓄積される科学的な知識というのは、時代を経て人間の役に立つと思うよ。だけど、それ以外の色んな経験とか観念とか伝統と言ったものは、例外なく全て害になってる気がする。「神」っていう発明も害でしかないと思うしね。
> ノンブ 殿
「雄大な景色みるど悩みも吹っ飛ぶ」、確かにな、考え自体が消える瞬間かもな。でもそれがその一瞬の短い間だけで、また復活しちまうようだと悲しいな〜と思う。時間に関係なく一切の悩みが消えるには、やっぱり自己ってもんが鍵になってるような気がするな。
相変わらずまた難しそうなことを書いていますね〜。
あのー、”自己”を物質的にとらえることで納得できたとありましたが、物質的でないものもあるのではないだろうか?
なんか観念的になりすぎてるような・・・
”ラーメン食べている自分”を感じたり、”お笑いみて大爆笑の自分”を感じたり、それも”自己”ですよね?
んで、満ち足りた気持ちで死ねたらいいなーと思いました。フフ
はじめまして(笑)。
いつの間にかこんなところに紛れ込んでくれちゃってたとは、、、びっくりでしたよ(笑)。
観念的、ですか?
確かにここに自分で書いたような事を、一つの考え方・結論として保持しようとしたり、信念として信じこもうとしてるのなら、それは観念的と言えるのかもしれないすよね。例えば世間でよく言われる「親切は回りまわって自分のところに返ってくる」といった考え方のように。
でも、何かを信じるということは、例えそれが一般的にどんなに良いと言われるようなことであれ、幻想を抱くことにつながる気がしますなぁ。物事をありのままに見ることからの逃避になってしまう気がします。
記憶・思考・自己といったものを物質的な事柄から切り離し、何か特別なものとして扱おうとすることを、俺は疑問に思うというだけです。むしろ人体の他の器官と同じように観察できるものなんじゃないかと感じる訳です。
「〜な自分」を感じる。その「〜な自分」という者と、それを感じている者というのは、果たして別のものなのか?ということを考えます。例えば、よく「自分の感情をコントロールする」という表現を聞きますけど、感情自体と、感情をコントロールする者は、そもそも別のものなのかどうか?という疑問と同じかも知れませんな。何かそこには意図的(だけど無意識的)な分離があるんじゃないかと。
”自己”の罠、、、これを頭で考えて理解するんじゃなく、本当にはっきりと気づくことがもしあるとしたら、今とは何か違う状態があったりなかったりするのかなと。ま、そんな状態を想像したり望んだりする時点で、”自己”の罠にどっぷりとはまってしまってますが。心底恐ろしいヤツですな、”自己”とか”思考”とかいうヤツは。ふぇふぇふぇ(笑)。